茶道 尾州久田流家元

尾州久田流について

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下村瑞晃

尾州久田流家元・概要

名称 尾州久田流家元(びしゅうひさだりゅういえもと)
住所 〒459-8001 名古屋市緑区大高町字伊賀殿4-7 地図 »
電話番号 052-621-4528
FAX番号 052-621-2181
当代家元 下村瑞晃(しもむら ずいこう)
所属 東海茶道連盟/ 熱田神宮献茶会/ 三日月茶会/ 知足会/ 木曜会/ 豊国神社茶会/ 興正寺茶会/ 朝日茶会

家元・下村瑞晃プロフィール

生年月日 昭和6年3月2日
座右の銘 去るものは追わず、来るものは拒まず
趣味 晩酌、読書、野球(ドラゴンズファン)
好きな食べ物 美味い物は全て好き
茶道をやっていて
良かった事
茶道具が好きでいろんな道具を目にする事が出来た。

尾州久田流の由来

茶道尾州久田流は、哉明下村実栗(みつよし)に創ります。
哉明は天保四年(1834)に現在の名古屋市大高町で郷士、下村丹山の長子として誕生しました。

母は山口氏、幼くして文字をよくし英才人にすぐれ、長じて茶道に精魂を傾け、又、花の舎について画を研鑽しました。 茶道は初め松尾宗古(1820~1856)に学び、後、京都両替町久田栄甫に師事し、久田流の奥儀を極めました。

孝明天皇の御妹、和宮親子(ちかこ)内親王が将軍家茂に御降嫁の折、尾張藩の茶道方として鳴海宿にて真の台子を以って茶を献じたと伝えられています。 時に哉明二十歳でした。

以後、明治・大正と千里を遠くとせず、一服の茶に来訪する数奇者多々、中でも鈍翁益田孝、箒庵高橋義雄などとの交友は人の知るところです。 又、知己の需に応じて画筆をふるい、茶席・茶庭を好みました。

流派の歴史

何故「尾州久田流」なのかの問いに何と答えるべきか、 久田流でよいのではないかと即答される方も多くあられると思います。

『尾州』と冠した意味は深く味わう必要があると思います。 単に地域を表示したのではなく、愛知の久田流の心意気と思われる近代茶道は、明治維新前後衰微の極みに達していました。 大名の茶から庶民の茶への大転換期でした。 多くの茶人は(三千家家元も同様)、後ろ楯を失い、日常の生活にも事欠く状態でありました。

そのような中、維新後も茶の湯が冷めなかった尾張は流儀の奥義を極め、多くの門弟を抱えた茶人が健在でした。 久田流の下村西行庵、大塩伝十郎、裏千家の村瀬玄中、遠州流の横井飄翁らであります。 衰微した茶系を支える茶人連峰が濃尾平野に出現しました。 ひときわ高い峰が大高(名古屋市緑区)の西行庵哉明こと下村実栗(1833~1916年)でした。

久田流の歴史は千利休の妹、宗円を母とする久田宗栄を初めとし、五世厚比斉宗玄の時代に両替町久田と高倉久田のニ家に別れます。 このうち久田流を唱えた両替町久田の茶人は東海地方に多くの足跡を残しました。 特に尾張周辺部知多・三河・美濃に茶の湯を弘めました。

茶法伝承系図

幕末・維新の混乱期、久田家も御多分にもれず流浪が始まりました。 久田宗栄もその一人で、有力門人が数多くいた尾張に身を寄せ、そこで客死します。 宗栄から栄甫と受け継がれた茶風は下村実栗(哉明)に伝わりました。 哉明は生業のかたわら、茶に親しみ、風雅を愛します。 六十五才で庵を結んで隠居し、茶道に益々精進しました。その名声は高まるばかりでした。

一つのエピソードに大正四年(1915)春、東京品川の「御殿山大茶の湯」のこと、当時最大な数奇者、鈍翁益田孝邸宅に一五席もの茶席がかかり、 「北野大茶湯」の再来といわれた茶会の折、贅と趣向を競った中に哉明翁は緑陰に野たて席を設け、にこやかに来客と歓談する姿がありました。 この見聞記を書いた箒庵高橋義雄は老人(哉明)の醸す風情と名物茶入「柳蔭」などの取り合わせが「茶味の点より云えば、この席が当大茶の湯の圧巻なり」と「東都茶会記」で絶賛しています。 この茶風こそ、尾州久田流の真骨頂であります。

点前は威厳をもってさらさら流れるごとく。特におんな点前を得意としている。

現在は、下村瑞晃家元の下、萬翠会・若草会の直門が日々研鑽に励んでいます。 稽古は楽しく有意義な一時と実感しています。 多くの方の出会いを一門一同楽しみにしています。是非御参加・御修練ください。